初めまして
株式会社Falcoの代表の本村啓子と申します。
ホームページをご覧いただきありがとうございます。
株式会社Falcoは、
2017年設立のWEB通販の会社です。
まだまだ創業から浅い会社ですが、理念である
【一人一人が輝けるように】
という理念のもと、お客様やスタッフと共に成長しています。
商品の販売を通じて人と人のつながりを深め
喜びや、感動や幸せを得られるようにと思いながら運営しています。
一人一人は特別な存在であり
その命を輝かせるお手伝いができることを日々考えています。
助産師からの転身ーー異色の経歴の社長は、どんな想いを名前に込めたのか
「一人一人が輝けるように」ーーそんな想いを持ち、私たち株式会社Falcoは事業を運営しています。弊社の代表、本村啓子は医療関係に30年従事し、社長に就任したという異色の経歴の持ち主。そんな彼女が社長として踏み出したのは2015年の秋でした。
子供が好き。“助産師を一生続けようと考えていた時期
私が株式会社株式会社Falcoの代表取締役社長に就任したのは、2019年のこと。
もともと私は助産師として30年間およそ3000人の赤ちゃんを取り上げてきました。
やりがいを持って働き、一生助産師として世の中の女性のために働こうと考えていました。
世の中は出生率の減少と、蔓延するストレス社会
その中で自身もうつ病を患ってしまいました。まさか私が・・という気持ちでした。
1年半の求職を経て社会復帰をしましたが、常備薬が手放せるようになるまでには10年の月日がかかりました。
社会復帰した私は、今後私のようなストレス社会で疲弊した人々のために何かできないかを探る中で、私のように病気や、障害がありつつも社会復帰を目指せる施設の設立を決めたのです。
また、これまでの経験を生かして女性を社会の中で輝かせるための雇用を創出したいと思いました。
せっかくの機会なので、少しだけ、私の人生を振り返らせてください。
小さいころの私は、兄弟3人の中であまりしゃべらない子供だったようです。外でばかり遊んで、海で泳いだり、木に上ったり、カエルやザリガニを捕まえたり、魚釣りをしたり。
そんな風に、むかしの田舎の生活を思わせするような女の子でしたが、すくすくと育ち、高校時代は100人に及ぶ部活のキャプテンを担い、高校卒業後は中国生まれの引き上げで漢方薬にも詳しかった母の影響で看護師を目指し、東京の看護学校に通うことになります。
そこで自分を理解し開示することで他人との距離が近くなることを学びました。
また生きていく価値観について、深く考る機会を得ました。
21歳で看護学校を起業。助産師の道
実習で出産場面の体験をして、この世に赤ちゃんが生まれる尊い場面に出会い、助産師の道を志しました。
都立病院で働きながら資金をためて、1年後に助産師学校へ進学。
助産師学校の1年はこれまでの人生で一番きつかった思い出があります。
卒業までに分娩介助を13件の必達項目があり、病院に泊まり込み3日間で睡眠時間6時間という経験もしました。
もう2度と経験したくないくらい大変な実習でした。
その時の経験は後々の私の仕事への取り組む姿勢に大きく影響しています。
助産師となり、前出の都立病院や救急病院、地域の中堅病院、地元の個人病院の産婦人科や小児科を経験しました。
自身の出産や、育児も経験も活かしながら、30年間全力で看護・助産活動を行ってきました。
一生の仕事として、誇りを持って仕事を続けるはずでした。
助産師のプライドを捨て、インターネット通販立ち上げへ
2015年、時は少子化の深刻な時代
努めていた産婦人科にもその波が襲いかかってきます。
病気の時期も支えてもらった恩も在り、妊産婦の獲得のために集客を学ぶべく起業塾へ通うことにしました。
そこでの出会いが今の道に大きく影響しました。
時代の流れはこれまでとは違い、医療も、これまでの技術力だけでの口コミだけではなく積極的に集客していかないと経営は困難になってきていました。
何とか恩返しをしたい気持ちとは裏腹に、出産件数はどんどん減ってきました。
集客の提案をしてもプライドなのか集客の具体的な動きが出来ず、対策が硬化した医院は、出産減の波には勝てませんでした。
時折、スタッフで提案をするのですが、経営側との意見は折り合いがつかず、雇用を含めた調整へ。
そこで感謝を込めて、私は進んで退職することにしたのです。
まさか私が起業するなんて
神様は粋なことをするもので、私がやめたタイミングで起業塾の中で物販の講義がありました。
それは物を購入して、必要な方に売るという大変単純でビジネスモデルでした。
これなら私にもできるかもと思い手を挙げて参加することになりました。
その時同時に、物販と就労支援を掛け合わせた社会への貢献できる事業モデルができることを知ったのです。
それは私が望む女性の力を十分引き出せて、障害を持った方を社会復帰させるという社会貢献の理想のモデルでした。
そこで、まずは物販事業を確立しようと、これまでの経歴は捨て去って、必死で仕事をしました。
ネットに疎く、スマホも、パソコンも使えなかったので大変でしたが、仲間に恵まれて、Googleで検索する(ググる)ことから教えてもらい、徐々に克服していきました。
半年くらいたったころでしょうか。
物販事業がうまく周りだしたときに熊本震災がおきました。
道は寸断され、建物も大きな被害がでて、県内は被害も多く、当然ながら取引先とも連絡がつかず、大変困惑しました。
商品を置いていた倉庫も閉鎖され、販売の機会を得られず、長引けば黒字倒産という経験もしました。
運よく数日後には倉庫も再開し何とか運営を続けることが出来たのです。
しかし、九州中が震災の深い爪痕を負いましたので、新しい仕入れがなかなかできません。
そのピンチを遠隔地との取引を伸ばすことでチャンスに変えていきました。
ピンチはチャンスだとの教えを信じて模索した先に光はありました。
幸運にも、起業依頼365日、一心に仕事をする、私を見かねて、姪や、息子、主人と次々と会社に入って手伝ってくれるようになりました。
心の通じ合う身内が入職というラッキーが重なり
事業は拡大していきました。
個人事業主から法人へ
個人事業主として2年ほどが経ち、法人を作るときが来ました。
法人の名前をどうしようかとかなり考えましたが思いつきません。
すると息子が「鷹一生」にちなんでFalcoにしようと提案してくれました
鷹は人生の半ばで、山にこもり羽根を落とし、爪を岩で削り、新しくなった翼と爪で残りの半生を生きていくそうです。
その姿が、うつ病を経験して、助産師から新しい残りの人生を再び歩む私の姿に似ているというのです。
株式会社Falcoはそんな私の姿を映しています。
そして就労支援へ
通販事業が拡大して、いよいよ障害者就労支援事業が始まりました。
通販会社の荷物を、障害者のある方の作業にするのです。
当初は福祉の業界は初めてということで信頼が得られず、利用者もなかなか増えませんでした。
ですが1年を過ぎたころには徐々に利用者も集まり始め、運営はうまく回りだしました。
これから、利用者に合う仕事を作るために、また奔走の毎日です。
これから
年齢がかなりいってからの起業ということでいろんな困難がありました。
罵倒されて、行く先が見えなくなることもありました。
負けず嫌いの私はそれをバネにしてここまで来ました。
諦めなければ、思いは年齢や才能を超える事を体現してきました。
振り返ると起業以来、全速力で駆け抜けてきましたが、何より恵まれていたのは人のご縁でした。
毎回、家族、社員、仲間が助けてくれて感謝に堪えません。
人は一人では生きていけませんし、一人では味気ない人生になってしまうでしょう。
人は皆、幸せになる権利を持って生まれきています。
それを、体現できるよう、少しづつでも活動をしていきたいと思います。
今後も株式会社Falcoは人のご縁を紡いで、社会的に意義のある会社にしていきたいと思います。